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大学生活終わるので革グツ買う

およそ大学生らしいことを何もなさぬまま大学生活が終わろうとしている。
大学生活の四年間は矢のごとく過ぎていくとよく言うけれど、ぼくがピンと引き絞った弓は感動的な卒業という幸福なリンゴに突き刺さるはずがズドンと息子に突き刺さり息の根を止めた。
反省なんてついぞしてこなかったぼくだけれど、こればかりは反省している。
スマン俺。
もっと有意義な大学生活を送らせてやりたかった。
きっと“正しい大学生活の送りかた”はあるのだ。
モーセやキリストのように鋭敏なセンサーを持つ選ばれし大学生は“正しい大学生活の送りかた”なる天啓を受信し、きわめて生産的な四年間を送る。
一方ぼくが四年間で得たものはニコチンで薄汚れた肺と少し早くなったレジ打ちの技術だけである。
言ったそばから矛盾したことを言ってしまうけれど、大学生活を送りながら全く反省をしなかったわけではない。
やばいなあ、もっと何かやらなきゃなあ、でも今日はいっか、とおふとんに潜り込みパソコンでゴロゴロYouTubeを観ていたら寝落ちてて、目を覚ましたら大学生活が終わっていた。
そんな気分。
何がいけなかったのか?
何が足りなかったのか?
ぼくに足りなかったものは“行動力”の一言に集約されている。
行動を起こしたものが勝者となる。
ボケッと見上げていても空から少女は降ってこない。
この悲劇を繰り返してはならない。
すべての新入生が行動を起こし、正しい大学生活を送ってくれることを心から望む。
ということで卒業式が間近に迫っている。

革靴が必要になった。

特に熱意もないのに大学院に進学するぼくはサラリーマンへの猶予が二年間与えられているわけで、スーツにしか合わないようなストレートチップは必要ない。

着ていくセットアップもGANRYUのアンコンジャケットだし。

少し前にハインリッヒディンケラッカーへの食指がニョロニョロと蠢いた時期もあったがそんな余裕がぼくの懐にあるだろうか。
懇意にしているヴィンテージショップでドンピシャなものを見つけ即購入した。
GUCCIのホースビットローファー。

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リーバイスの501であるとかグローバーオールのダッフルコートであるとか、定番とされるものをぼくはとても好ましく思う。
GUCCIのコイツもご存知の通りホースビットローファーのオリジンであり、古くはプレッピーな男たちの足元を彩ったアイコニックなシューズである。
タコを初めて喰らった人もそうだけどローファーに馬具を取り付ける発想は意味がわからない。
意味がわからないけれど、この上なく当然といった面持ちでホースビットは鎮座している。
デカルトが言うように、人間理性は神の派出所であり「タコ食えますよ」とか「馬具付けられますよ」と脳内インプットされているに違いない。
そうでなければタコを食おうとは思わないし況やナマコをや。
イタリアンシューズといえばセクシーなイメージだが無骨なvibramソール履いてるところも自家撞着起こしててなんだか愛おしい。

ドクターマーチン、或いはパラブーツ感覚で履けそうな。

フレッド・バステアが“パリの恋人”で履いてたって聞いてもピンとこないけれど“クレイマー、クレイマー”のダスティン・ホフマンの着こなしならはるか昔にみた記憶がある。

卒業式のみならず大切に使ってやりたいものだ。

おわり。

分解して考えるファッション

ものごとを分解して考える力いわゆる分解能があまりにも欠如していてそのせいですべてにおいて小さくまとまった人間になってしまったのだと思う。

なにごとにおいても分解能に秀でた者がプロフェッショナルになるのが世の常であり凡人の分解能しか持たぬ者はどう足掻いてもアマチュアの域を脱することができない。

だからぼくは氷菓福部里志が自称するところの「データベース」を目指そうと思うし(この言い方だと語弊がある、「目指そうと思う」のではなく「目指すしかない」のである)「データベースは答えを出せないからね」という彼の言葉はあまりに深くぼくの心に突き刺さる。

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 ぼくの心を突き刺した福部里志くんご尊顔 なかなか腹立たしい顔をしている

 

ぼくはものごとを総体で捉えることしかできない。

「総体は個の集合体である」ということに意識的に目を向けてもなかなかそのイメージを掴むことができない。

例えばだけれど銀座で寿司食ってるとき。

例えばだけれどオイラーの公式を目にしたとき。

例えばだけれどラフシモンズのコレクションを観賞したとき。

ぼくはきっと当たり障りのない感想を述べることしかできないけれど、高性能な分解能を持つ者ならばこの脂身と甘みが云々!とか指数関数と三角関数に相関があるなんて!とかワイドパンツのこのシルエットが美しい!とか、細部に宿る美を見出すことができる。(なんだかお粗末な感想に見えるのは分解能落伍者たるぼくが想像で書いているからです)

総体の美しさしか分からないひとのファッションは退屈だ。

「調和的な」総体の美しさを捉えることができるのなら話は別だが、往々にして中途半端に個を捉えようとして、失敗してしまう。

 

分解能の精度は検索力とも正比例する。

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これは「G-1」と呼ばれるフライトジャケット(をオマージュして作られたもの)であるがもし仮にこの製品の名称を知らなかったとしてあなたはGoogle検索窓に何と打ち込むだろうか。

ぼくはついこの間とある理由からコイツの名前を調べる必要に迫られて、ウーンウーンと唸った挙句「MA-1 ボア付き」と調べてみたり(B-15とかいうフライトジャケットがめちゃ検索にかかった)色々してみたのだけど、結局名前を知ることは能わず。(数日後、教養深い知人が答えを教えてくれた)

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ヘルメット被んのに邪魔じゃねっつってB-15からボアむしり取った歴史的経緯によりMA-1は誕生した

 

きっと優れた分解能を持つ者なら「MA-1」要素のひとつである「フライトジャケット」から検索キーワードを発展させてゆき、「フライトジャケット フラップポケット ボア」とかそんな感じの検索をして最適解を得るのだろう。

ぼくはMA-1がフライトジャケットであることは知っていたのだけどMA-1という総体(=MA-1そのもの)を意識することしかできないので、これがいわゆるデータベース型人間のウィークポイントであるなあとつくづく感じた。 

ちなみにG-1ジャケットはデンジャゾーン!でお馴染みトップガントムクルーズが着てたやつ。

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この顔である

 

音楽を聴いてるとき。

美しい服をみたとき。

どんなものであれ、クリティカルにぼくの心を惹きつけるコンテンツはひとつもない。

どれもすべて良く見えるし、どれもすべて悪く見える。

コレクション・ブランドに対する評価もほとんどがデータベース(頭)に蓄えた知識(他者の言説)に依存して述べた感想に過ぎなくて、擬・分解能とでも呼ぼうか、そういったニセモノの能力を以てその場しのぎの論評を述べているにすぎない。

コートがセンターベントでなくサイドベンツであることにワクワクするひと、トリプルステッチに心をときめかせるひと、そういった感性を持つ人種にどうしようもなく憧れる。

 

分解能を後天的にアップグレードするためには、たぶんだけれど自分の与り知らぬ世界に足を踏み出すことが肝要なのだと思う。

スキニーばかり穿いているひとは思い切ってタック入りの極太スラックスに足を通してみればいい。

そうすればスキニーとスラックスの差の絶対値を意識することができるので、分解能の精度は上昇する。

あるいは、トレンドを追いかけるのをやめて、自分のセンスだけで服と向き合ってみるとか。

MA-1も最近トレンド筆頭だったけれど、トレンドとしてのMA-1、雑誌でみるMA-1は、「MA-1そのもの」を意識させることしかなく、分解能を鈍らせる。

トレンドを意識しつつMA-1を買おうと思い立ってショッピングにでかけても、「各ブランドのMA-1同士を比べること」ばかりに目がゆき、MA-1自体を分解して考えることは決してないだろう。

トレンド越しにみるMA-1は分解することができない、単一の細胞としてのMA-1にすぎない。

ファッション雑誌に踊らされるな。(ぼくはよく踊っています)

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そういえば、最近50年代のチェスターフィールドコートをJANTIQUESで買ったのだけれど、カシミヤ混のその素材はあまりに触り心地が良くて、今まで持っていたどのアウターとも違っていて、とても気に入った。

素材の良さは(写真などの)メディアでの再現性に乏しい。

メディアでの再現性に乏しいものを実際に見ることで、例えば今回の例で言うならば少なくとも「素材」と「服」そのものを分離して考える眼が養われ、分解能は成長した。(ような気がする)

分解能の育て方は色々あるっぽい。

 

分解能は人生を豊かにする。

音楽にしろファッションにしろ食にしろ、分解して考えた方が圧倒的に情報が膨大で、深い。

キラーチューンばかりで満足していてはいけない。

 

www.youtube.com

栗野クライシス

20151130

男性服より女性服の方が着ていて何だか楽しそうだしバリエーションも豊富でワクワクするなあということは、ぼくが指摘するまでもなく世の中の誰もがまあ、大体は思っていることだと思う。

ぼくは幼少期、西森博之の「天使な小生意気」を読んで女体化に対する大きなトラウマを(何故か)抱えたので、女性服に憧れること自体タブーみたいに思っていたのだけれど、時が経つにつれて徐々に抵抗感は失われてゆき、今では女性ものでもサイズさえ合えば着られるまでに回復(?)した。
男根を剥奪されることに恐怖を覚えるのは心理学的によくあることなのだろうか。
その方面に造詣は深くないので、詳しい方、今度こっそり教えてください。話が逸れた。
ファンクショナルな要素でのみ構成される点において、男性服は女性服と差別化される。
例えば、ある服のあるポケットが、なぜその傾きで、なぜその位置についているのだろうかと考えたときに、「それは弾薬を取り出しやすい位置にポケットが必要だったからだ」といったようなウンチク的解釈が、男性服においては可能である。
そもそも男性服のソースを考えてみると、ミリタリーウェアやワークウェア、それからスポーツウェアであることがほとんどで、それらの服は確かに格好良いけれど、美を志向して作られたものではなく、機能性を追求して作られたのちに「いやちょっと待て、これって結構かっこいいよね?」といったノリで後の時代に評価・解釈されるものであり、美しさというパラメータはあくまで後付け設定にすぎない。

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男は働き女は家事さえすれば良い。
この前時代的な社会構造が男性服のアーカイブを拡張した。
一方で女性服は、着ながら働く必要も戦う必要もないので、ただ見た目に美しければ良い。
ここで反論として、デザイナーはミリタリーウェアなどをインスピレーションに服作りをする(こともある)のだから、女性服がファンクショナル・ヒストリカルでないとは一概に言えないだろう、とのご指摘もあるかもしれないが、美しさを際立たせるために機能(歴史性)を取り入れるのと、機能(歴史性)に美しさを見い出すのとでは、本質的に全然違うものだとぼくは考えている。
逆に言えば、メンズコレクションにも美を志向した「ファッションをするための服」が数多く並ぶが、それらは女性服的な視点を輸入して作られたものであり、ある意味で「男が着られる女性服」だとも言える。

アメリカの経済学者ソースティン・ヴェブレンがこう言っている。

「ファッションは高価なものであるべきである。なぜなら着ている人の富を表現するものだからだ。そして、機能性や実用性がないものがファッションだ」

ファッションは、人がオシャレになるため・人が自らを飾り立てるためのものであり、それ以上でもそれ以下でもない。

これが、ファッションの本質。

結局、限りなく純粋な目でみたときに、性質としてただひとつ、「オシャレをするため」「美しく見せるため」といったものが残る服を知らずして、ファッションを語ることはできない。沈黙しなければならない。
以上のような思考の推移を経てぼくは、今までのファッション観を大幅に転回し、モードファッションを志向するようになった。
それについては少し前に書いている
で。
最近また、大きな個人的転換期が訪れようとしている。
彼が、EYESCREAMでギャルソンをやたらシックに着こなす姿をみて、完全にやられた。
モードを咀嚼した上で、自身のメンタリティで着こなす姿勢は、「ファッションをするための服」を漠然と着る行為なんて軽く凌駕する。
ファッションの極値はモードだけれど、それを取り込み、ひとつ先んじている。
ぼくのプリュス好きの友人に、ギャルソンにはギャルソンの世界観があるので全身をギャルソンにしなければ意味がない、と宣うひとがいて、確かになるほどなあとは思うが、しかし一方で、一流のDJなら一流のアルバムからミックスすることだって可能なのだ。
「ファッションをするための服」を知ることは肝要だが、でもだからといって、「ファッションをするための服」だけを着るのが絶対的に正解とは言えない。
モード一辺倒ではなくて、周辺領域を理解し、自分のスタイルを作っていく。
これからスタイルのある大人を目指す上で、どうしても避けて通れない道であるように思う。