栗野クライシス

20151130

男性服より女性服の方が着ていて何だか楽しそうだしバリエーションも豊富でワクワクするなあということは、ぼくが指摘するまでもなく世の中の誰もがまあ、大体は思っていることだと思う。

ぼくは幼少期、西森博之の「天使な小生意気」を読んで女体化に対する大きなトラウマを(何故か)抱えたので、女性服に憧れること自体タブーみたいに思っていたのだけれど、時が経つにつれて徐々に抵抗感は失われてゆき、今では女性ものでもサイズさえ合えば着られるまでに回復(?)した。
男根を剥奪されることに恐怖を覚えるのは心理学的によくあることなのだろうか。
その方面に造詣は深くないので、詳しい方、今度こっそり教えてください。話が逸れた。
ファンクショナルな要素でのみ構成される点において、男性服は女性服と差別化される。
例えば、ある服のあるポケットが、なぜその傾きで、なぜその位置についているのだろうかと考えたときに、「それは弾薬を取り出しやすい位置にポケットが必要だったからだ」といったようなウンチク的解釈が、男性服においては可能である。
そもそも男性服のソースを考えてみると、ミリタリーウェアやワークウェア、それからスポーツウェアであることがほとんどで、それらの服は確かに格好良いけれど、美を志向して作られたものではなく、機能性を追求して作られたのちに「いやちょっと待て、これって結構かっこいいよね?」といったノリで後の時代に評価・解釈されるものであり、美しさというパラメータはあくまで後付け設定にすぎない。

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男は働き女は家事さえすれば良い。
この前時代的な社会構造が男性服のアーカイブを拡張した。
一方で女性服は、着ながら働く必要も戦う必要もないので、ただ見た目に美しければ良い。
ここで反論として、デザイナーはミリタリーウェアなどをインスピレーションに服作りをする(こともある)のだから、女性服がファンクショナル・ヒストリカルでないとは一概に言えないだろう、とのご指摘もあるかもしれないが、美しさを際立たせるために機能(歴史性)を取り入れるのと、機能(歴史性)に美しさを見い出すのとでは、本質的に全然違うものだとぼくは考えている。
逆に言えば、メンズコレクションにも美を志向した「ファッションをするための服」が数多く並ぶが、それらは女性服的な視点を輸入して作られたものであり、ある意味で「男が着られる女性服」だとも言える。

アメリカの経済学者ソースティン・ヴェブレンがこう言っている。

「ファッションは高価なものであるべきである。なぜなら着ている人の富を表現するものだからだ。そして、機能性や実用性がないものがファッションだ」

ファッションは、人がオシャレになるため・人が自らを飾り立てるためのものであり、それ以上でもそれ以下でもない。

これが、ファッションの本質。

結局、限りなく純粋な目でみたときに、性質としてただひとつ、「オシャレをするため」「美しく見せるため」といったものが残る服を知らずして、ファッションを語ることはできない。沈黙しなければならない。
以上のような思考の推移を経てぼくは、今までのファッション観を大幅に転回し、モードファッションを志向するようになった。
それについては少し前に書いている
で。
最近また、大きな個人的転換期が訪れようとしている。
彼が、EYESCREAMでギャルソンをやたらシックに着こなす姿をみて、完全にやられた。
モードを咀嚼した上で、自身のメンタリティで着こなす姿勢は、「ファッションをするための服」を漠然と着る行為なんて軽く凌駕する。
ファッションの極値はモードだけれど、それを取り込み、ひとつ先んじている。
ぼくのプリュス好きの友人に、ギャルソンにはギャルソンの世界観があるので全身をギャルソンにしなければ意味がない、と宣うひとがいて、確かになるほどなあとは思うが、しかし一方で、一流のDJなら一流のアルバムからミックスすることだって可能なのだ。
「ファッションをするための服」を知ることは肝要だが、でもだからといって、「ファッションをするための服」だけを着るのが絶対的に正解とは言えない。
モード一辺倒ではなくて、周辺領域を理解し、自分のスタイルを作っていく。
これからスタイルのある大人を目指す上で、どうしても避けて通れない道であるように思う。